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また家賃払うの忘れてたよ!


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『パトリキ』
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2008.06.25  この記事はデタラメでないです。100%真実にされます。これは安心ブログです。 <<20:10


 ――安心の記事――

とにかく日本人に必要なのは信仰ですね。それも全てを包括しうるような、世界的なものです。グローバルでありながら多元的という、既に先が見えてる世界ですからね。あらゆる信念がぶつかり合い、血を流し合う多元的闘争の時代が来るでしょう。だから、たとえどんな世界観であっても統合し、闘争を許さぬような、平和的でありながら闘争的な思想が必要なんです。そして、それを受け入れる器が必要です。

 ――正しくされた見解――

いまのところ、一番うまくやってるのはアブラハムの宗教でしょう。しかし、ユダヤ、キリスト、イスラームは最終的に戦わねばならないのです。それが現に中東で起こっていることです。もっとも、経済的で現実的な要素が大きいですが。もし神概念を無くさず、かつ無神論と共存可能な信仰を生み出せたなら?その点でうまくいっているのは、お金とか石油だけですね。実のところ、そんな信仰が成功した場合、お金は無くなるし、神概念もなくなるし、それゆえ無神論も消滅するだろうし、最後には人間そのものが消えてしまうかもしれない。

 ――優れた考える――

仏教は、のけ者になる事で敢えて生きるための宗教ですね。種としては、全員が修行者になるのは無理です。おそらくその点でも、仏教は女性の出家者を歓迎できない。男性だけがのけ者となって逃げ切る戦略にも見えますが、その代償として、全体の苦を減らすための努力をしようというのが大乗思想なのかもしれない。修行者だけが苦から解脱して、残りの世界を残してしまった場合、いったい誰がこの信仰を維持するのか、そもそも信仰を必要としているのは人間なのだから。よって、仏教を普遍化した場合、人間という種は滅びる。いわば弱くしてしまう。いっぽうで、一神教は最終戦争を予見させる。

 ――よい考え!――

さて、ここでいいかげんな多神教がのさばってくるわけですが、なんと言っても多元的かつ無限抱擁可能という利点を備えた神道であります。これほど不気味なのはない。何がしたいのか分からないゆえに、何でもできてしまう。その代表が国家神道であり、天皇制であって、とにかく扇動と洗脳には持ってこいです。日本人にしか効かないという説もあるが・・・・・・。とはいえ、サブカルチャーの進展には期待しています。いったいどの程度メチャクチャに暴れてくれるのか。うまい具合に現世利益に結びついて、資本主義との相性もバツグン。「プロレタリアンが団結するなら、骨抜きにしてしまえばいいじゃない!」

頭のいい人、サブカル使って世界征服はじめませんか。まぁ無理でしょう。

 ――うまく厳選される記事――

No.265 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.06.16  思索ノート<問答編> <<05:28


「ねぇ、もし本当に精神を持っているなら、いますぐ死んでみせてよ。だって、精神は死なないはずじゃない。」

「私の精神は決して身体を軽蔑しない。私の精神は、精神自らを試してみることをしない。なぜなら精神は明晰さを持っているのであるから、私の身体が現にあることを明晰に知り、私の精神が現にあることを明晰に知っているはずだからだ。なのに、なぜ身体と精神を試してみることをするだろう?」

「あなたの精神は、身体や現象を疑うところから生じたのではないの?」

「私の精神はいたずらに疑うことはしない。精神の生成する以前より、ただ存在していた物を、どうして疑うことができるだろう?」

「精神は死なないはずなのに、生成するの?だって、不死のものが生成するなら、無限なものが有限であることになるよ?」

「身体よりも簡単に精神は死ぬ。認識の死ぬところで精神は必ず死ぬ。むしろ身体だけが生きている場合が多い。」

「身体や認識について、疑いが生じるでしょう?現に生じたのでしょう?」

「認識し、観察すること自体に疑いはない。私が誤認している可能性はあっても、観察し、認識したことに変わりはない。誤認したと断定するならば、現在の認識のほうがより正しいという確かさが無くてはならないが、その確かさは認識そのものの実在性に由来するはずだ。だから、明晰さを持つ以上は認識し、観察することの確かさもまた認めなくてはならない。」

「あなたの明晰さとやらは、どこからやって来るの?」

「以上のとおり、身体の確かさ、認識の確かさだ。精神の明晰さは身体の確かさ、認識の確かさを抜きに説明できない。」

「説明になってないよ。明晰であることは、疑いの持ちようがないことでしょう?あなたは身体の確かさ、認識の確かさを無前提に認めて、そのくせに明晰さを言っているじゃない?つまり、疑っていないだけ。」

「まさに、私の明晰さは疑いを持たない。例えば、ある人が見た像が、他の人には別の像として見えた場合は、現象の認識自体は双方ともに明晰だが、その影自体は自らの同一性を反映しうるものではなかったのだ。すなわち、像とは同一性を持ち得ない。主体もまた然り。」

「あなたは精神に明晰さを持たせているのに、主体には同一性を否定するんだね。」

「精神にも同一性はない。ただ現象の像に確かさがあるだけだ。」

「ようするに精神って無いの?」

「認識するならば、精神は存在する。というより、認識自体を是認することそのものが精神の形だ。」

「あなたは認識を絶対化するだけで、精神についてはあやふやだね。」

「認識することができなければ、精神についても知りえないだろう。」

「ただ認識に全て還元してるだけじゃない。」

「それが今のところ最も確からしいものだ。それは今まで変わっていない。神の存在も導出できるかもしれないが、私は認識したことが無いからわからない。ただ、思慮することはできるかもしれない。」

「あなたに神はいないんだね。」

「神の存在より、風の音のほうが確からしい。君は主を試すようなことはできるのか?」

「できないだろうね。」

「それと同じく、私は認識を試し、その源である身体を試すことはできない。」

「じゃあじゃあ、もし五感を全て絶たれたら?」

「沈黙せざるを得ない・・・・・・。」



やっと出発点らしい物は見えてきた。私はこれを信じます。
デカルト風の精神とか明晰さとか言っておきながら、どんどん身体と現象に還元していく嫌らしさ。あちこち矛盾が見えそうで恐ろしいですが。
しかし、現象こそ確からしいのです。これを認めなければ、正しく無いという認識も不可能なのです。

<疑いようはないのだ、認識したということについては。その確かさから全ては生成する。>
<我認識する、そして我なし。>

なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。今まで納得いかなかったことが、自然と納得できる。人生についての課題に次々に応用できる!これほど素晴らしい感動はない!やった!やった!

あぁ、でも次々と拙劣な問題点が・・・・・・。

No.252 / 思索的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.06.09  思錯ノート3 <<21:23


なんじゃこの中二病は!このノートを書いたのは誰だッ!
数日で黒歴史化するとは、まさに理想のカタチである。

黒歴史と現実の弁証法的過程においてこそ、主体は自己発展するのである。

重要なのは劣悪なことではない。<劣悪さ>から脱却することでもない。<善さ>でもない。
すなわち概念による外化から脱却することである。

そしたら取り結んだ労働諸関係による外化にやられちまったとさ。
(簡単な話で、働かざるもの食うべからず、仕事のために生きて死になさいという一般常識)

大般涅槃経を読んだら今まで考えてたことを全部ひっくり返されてしまった。「どれだけ考えてもキミはキミではありえないし、キミは死ぬまでキミなんだよ(笑) だからYou帰依しちゃいなYo☆」
ええい、ちょっと寺院いってくる。

仏法があまねく三千世界を照らしますように。
というわけで振り出しへ戻る。

No.248 / 思索的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.06.01  思錯ノート2 (すこぶる感傷的な!) <<17:10


「欲望」

欲望といえば睡眠欲、食欲、性欲が三つの欲と言われている。しかしこの三つは極めて原初的であって、これより上位に知的欲求があり、人間をよりマシな方向へ向けてくれるという。忍耐は多くの欲望を抑え込み、ただ理性によってのみ人は生きるのである。この禁欲的、ストイックな人間観が一般的には「善い」とされる。だが、禁欲や忍耐や義務が欲望を伴わなかったことがあっただろうか?

欲望がネガティブに捉えられるのは、人間が滅びを欲するからである。すなわち、欲は没落への動きである。没落していく者は、一種の快楽を得るだろうし、絶えず没落への動きが続けば、さらなる没落を欲するようになる。(自己を保存しつつ)効率よく快楽を得るには、忍耐が必要になるのだ。こうして欲望を抑えつつ、刹那的に崩壊させ、発散する技術は良く知られている。積み上げた積み木の城を、子供は最後に壊すのである。

元から滅びへと向かおうとしている人間が、なぜ進歩的精神に目覚めたのか?禁欲と程よい快楽の資本主義が、ほんとうの目覚めだったのか?それとも人間は滅びと眠りを欲するか?

戦争はカーニバルだったのか。多くの若者が滅びを欲したのか。原子爆弾は「禁欲的」であったのか?それとも積み木の城を壊したい子供だったのか?

ヘブライ人はどうして滅びを見るのだ?日本人はどうして進んで死のうとしたのだ?
疑問ばかりであるが、環太平洋は最高のカーニバルだったに違いない。そして再び積み木を組む。

No.245 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.05.31  思錯ノート1 <<16:16


より良いコンテンツの一案として、書いてみんと思いて書くべし。

「思索」とか言っちゃうと、まるで正しいことを言っているようなので、「思錯」とします。ほとんど間違ってる、錯覚しているという事です。

自らの啓発のため、普段考えていることを残しておく必要があると思ったのです。しかし、自分にしか読めないノートというのは面白くない、かといって、人に教えるほど偉くない。その中間にあるものとは。




「社会」

普段接している社会。どんな人でも、これと関わらず暮らすことはできない。人が複数あつまると、コミュニケーションが発生する。そして人的結びつきが生まれ、強い結合関係と弱い結合関係が生まれ、やがて大きな網状の社会が成立する。社会性というのは殆どの生き物が持ちうるものである。「一匹狼」には、狼は群れで行動するものだという前提がある。

人間の場合、この「群れ」があまりに巨大化した。自らの知らないところで物が作られ、自らの作った物が知らないところで消費されている。物と情報の生産消費は「群れ」の本質であるのだが、まったくこれらが伝播する速度が異常に発達し、社会全体が異常に巨大化したのだ。

「群れ」にある生き物ならば、自分以外との連結が欠かせない。この結合関係の程度には大きな差がある。自己、そして家族、友人、共同体、制度、国家というふうに、結合関係は次第に弱まっていく。もちろん、自己との関係を中心に据えたならば、このように身近な共同体から遠い共同体へと関係性は弱まっていくのだが、それぞれの段階、とたえば会社と会社の関係、国家と国家の関係もあるわけだ。自己を中心とすればあまりに抽象的な会社、国家といったものが、社会では主に法律によって(民法、刑法、商法、はては国際法など、枚挙に暇がない)関係性を規定されている。なるほど、それぞれの段階に関する学問が成立するわけだ。このように、自分と身近な人間との関係以外にも、国家や制度、はては民族といったより抽象的な概念で結合しようとする複雑さが、人間社会の特質である。

さて、自己と社会との関わりについて見ていくと、非常にややこしい。アイデンティティーだとか世間だとか、いろいろ考えるべきところがある。

自己が自己自身と同一であるという意識がアイデンティティーなのだが、この同一性というのが重要なのだ。なぜ「アイデンティティー」という長ったらしい用語を使うかというと、「自分は自分である」というのはあたりまえの前提だからだ。実はそうではなくて、「自分は自分である」なんて嘘ではないのか?というのが「アイデンティティー」の示唆しているところだ。

昼寝している間は一匹の蝶々になって楽しく飛んでいたが、目が覚めたら芋虫になっていた!なんてシュールな事には絶対ならない。どんなに現実感のある夢をみても、夢から覚めたらそこにはありのままの自分がいるはずだ。しかし、ひとたび現実に身を置くとなると、あらゆる共同体概念と同化している自己がある。たとえば「日本人」とはかなり抽象的概念だ。言語的には具体的かもしれない、または居住地という点では疑いなく具体的かもしれない。しかし、「日本人とは存在するか?」と問われれば、「外国人に対しては存在する」と答える以外にないだろう。これと同じく、「わたしとは存在するか?」と問われれば、「他者に対しては存在する」と答えるしかないのではないか。

要するに要点としては、社会の中で立ち位置をはかりながら存在する相対的な自己が存在し、それはさまざま抽象的概念と同化することで成立している、ということだ。非常に陳腐な話になったので、さらにもう一歩突っ込んでいく。

「自己・自我」

「自己が自己自身ではありえない」ということは、自己が二つ以上存在し、互いに影響しあっていると考えるべきだろう。フロイトが言うエスと超自我のせめぎあいは非常に分かりやすい。本能と、それを制御する理性というのは現代人の精神観の常識だろう。しかし、このように分断されている自我が、どうして一つの精神を構成しうるだろう?「自分らしさ」というのは分断された自我の、より自由奔放な部分だとでも言うのだろうか。

もし、自我が一つであるか、もしくはまったく存在しないとすれば?

精神が無限であると前提する。
自己同一性が取りざたされる以上、自我は一つではないはずだ。自我が単一であれば、同一性を問題にする必要はない。だとすれば、自我は存在しない。なぜなら、自我が複数存在し、それが一つの肉体に含まれるということは、有限の肉体の中に無限の精神が存在し、その精神がさらに有限の自我によって構成されていることになる。有限の中に無限があり、無限の中に有限があるというのは、まったくの矛盾である。そもそも無限は分割しえず、分割しうるとすれば、無限ではない。なぜなら、無限を分割すれば、無限と有限に別れてしまい、すると有限とそれ以外に分割され、結局は有限になってしまうからだ。ゆえに精神は無限であるか、もしくは存在しない。自我によって分割されると仮定すれば、精神は存在しない。

無限の可能性を持つ精神が、本能や理性といった様々な形の自我を伴って成立するはずはない。よって、精神は無限であるか、全てが脳の働きに還元されるか、そのどちらかである。

この問いはかなり危ない。間違いだらけだろう。もう少し詰めないと話にならない。ただ、人間の心は脳の働きでしかないという考えと、精神は無限の可能性を秘めているという考えに、いくらか自分なりの決着は付いたかもしれない。つまり、それらは絶対に共存しえないという意味で。

No.244 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

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