夕焼けが霞んで見えない
また家賃払うの忘れてたよ!


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『パトリキ』
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2008.05.31  思錯ノート1 <<16:16


より良いコンテンツの一案として、書いてみんと思いて書くべし。

「思索」とか言っちゃうと、まるで正しいことを言っているようなので、「思錯」とします。ほとんど間違ってる、錯覚しているという事です。

自らの啓発のため、普段考えていることを残しておく必要があると思ったのです。しかし、自分にしか読めないノートというのは面白くない、かといって、人に教えるほど偉くない。その中間にあるものとは。




「社会」

普段接している社会。どんな人でも、これと関わらず暮らすことはできない。人が複数あつまると、コミュニケーションが発生する。そして人的結びつきが生まれ、強い結合関係と弱い結合関係が生まれ、やがて大きな網状の社会が成立する。社会性というのは殆どの生き物が持ちうるものである。「一匹狼」には、狼は群れで行動するものだという前提がある。

人間の場合、この「群れ」があまりに巨大化した。自らの知らないところで物が作られ、自らの作った物が知らないところで消費されている。物と情報の生産消費は「群れ」の本質であるのだが、まったくこれらが伝播する速度が異常に発達し、社会全体が異常に巨大化したのだ。

「群れ」にある生き物ならば、自分以外との連結が欠かせない。この結合関係の程度には大きな差がある。自己、そして家族、友人、共同体、制度、国家というふうに、結合関係は次第に弱まっていく。もちろん、自己との関係を中心に据えたならば、このように身近な共同体から遠い共同体へと関係性は弱まっていくのだが、それぞれの段階、とたえば会社と会社の関係、国家と国家の関係もあるわけだ。自己を中心とすればあまりに抽象的な会社、国家といったものが、社会では主に法律によって(民法、刑法、商法、はては国際法など、枚挙に暇がない)関係性を規定されている。なるほど、それぞれの段階に関する学問が成立するわけだ。このように、自分と身近な人間との関係以外にも、国家や制度、はては民族といったより抽象的な概念で結合しようとする複雑さが、人間社会の特質である。

さて、自己と社会との関わりについて見ていくと、非常にややこしい。アイデンティティーだとか世間だとか、いろいろ考えるべきところがある。

自己が自己自身と同一であるという意識がアイデンティティーなのだが、この同一性というのが重要なのだ。なぜ「アイデンティティー」という長ったらしい用語を使うかというと、「自分は自分である」というのはあたりまえの前提だからだ。実はそうではなくて、「自分は自分である」なんて嘘ではないのか?というのが「アイデンティティー」の示唆しているところだ。

昼寝している間は一匹の蝶々になって楽しく飛んでいたが、目が覚めたら芋虫になっていた!なんてシュールな事には絶対ならない。どんなに現実感のある夢をみても、夢から覚めたらそこにはありのままの自分がいるはずだ。しかし、ひとたび現実に身を置くとなると、あらゆる共同体概念と同化している自己がある。たとえば「日本人」とはかなり抽象的概念だ。言語的には具体的かもしれない、または居住地という点では疑いなく具体的かもしれない。しかし、「日本人とは存在するか?」と問われれば、「外国人に対しては存在する」と答える以外にないだろう。これと同じく、「わたしとは存在するか?」と問われれば、「他者に対しては存在する」と答えるしかないのではないか。

要するに要点としては、社会の中で立ち位置をはかりながら存在する相対的な自己が存在し、それはさまざま抽象的概念と同化することで成立している、ということだ。非常に陳腐な話になったので、さらにもう一歩突っ込んでいく。

「自己・自我」

「自己が自己自身ではありえない」ということは、自己が二つ以上存在し、互いに影響しあっていると考えるべきだろう。フロイトが言うエスと超自我のせめぎあいは非常に分かりやすい。本能と、それを制御する理性というのは現代人の精神観の常識だろう。しかし、このように分断されている自我が、どうして一つの精神を構成しうるだろう?「自分らしさ」というのは分断された自我の、より自由奔放な部分だとでも言うのだろうか。

もし、自我が一つであるか、もしくはまったく存在しないとすれば?

精神が無限であると前提する。
自己同一性が取りざたされる以上、自我は一つではないはずだ。自我が単一であれば、同一性を問題にする必要はない。だとすれば、自我は存在しない。なぜなら、自我が複数存在し、それが一つの肉体に含まれるということは、有限の肉体の中に無限の精神が存在し、その精神がさらに有限の自我によって構成されていることになる。有限の中に無限があり、無限の中に有限があるというのは、まったくの矛盾である。そもそも無限は分割しえず、分割しうるとすれば、無限ではない。なぜなら、無限を分割すれば、無限と有限に別れてしまい、すると有限とそれ以外に分割され、結局は有限になってしまうからだ。ゆえに精神は無限であるか、もしくは存在しない。自我によって分割されると仮定すれば、精神は存在しない。

無限の可能性を持つ精神が、本能や理性といった様々な形の自我を伴って成立するはずはない。よって、精神は無限であるか、全てが脳の働きに還元されるか、そのどちらかである。

この問いはかなり危ない。間違いだらけだろう。もう少し詰めないと話にならない。ただ、人間の心は脳の働きでしかないという考えと、精神は無限の可能性を秘めているという考えに、いくらか自分なりの決着は付いたかもしれない。つまり、それらは絶対に共存しえないという意味で。

No.244 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.05.14  新しい大ブログ史2 <<02:36


第4章 ブログ圏の危機

 彼のブログが全ブログ圏を抱え込んだとき、ひとつの機能不全が生じた。すなわち、彼のブログがいかに優れたものであろうとも、全ブログ圏にそれが広く行き渡るまで非常な時間を要するのである。この情報の遅延こそが、彼のブログの影響力をしだいに蝕んでいったのである。それは、これまで緊密に結びついていたブログ圏全体の紐帯が崩壊し、個々がそれぞれ自足していく分立時代の幕開けを意味するのである。
 それに加えて、彼が克服したかに見えた諸問題が、新たな形となって顕在化した。要するに、彼のブログが“めちゃつまらんく”なったのである。個々の記事のつまらなさ、それらがまとまって形成される“つまらんオーラ”、でもそんなの関係ないんだから!
 ブログ圏がしっかりと機能してさえいれば、彼のブログのつまらなさはさして問題とはならなかったはずである。つまり、ブログ圏の盛衰はひとえに彼のブログの限界をも規定していた。ブログ圏こそが、究極的に彼の足を引っ張る形となったに違いない。学者たちはこのように結論づけた。

旧版『ブログ史』より
事実、彼のブログはもとから面白いものではなかったし、根本のところで彼のブログの限界領域は規定されていたのである。ところが、大ブログ圏という誤った理念の導入にともない、決定的にその方針を見誤ったのである。



第5章 ブログ圏の没落

 彼のブログ圏は没落した。ここに、歴史は終焉したのである。そして黒歴史だけが残され・・うぁなにをするくぁwせdrftgyふじこlp

終章 さらなる改革と発展

 群雄割拠の分立時代は社会の荒廃をもたらすだろう。いま、新しい思想が必要である。だが、彼のブログはもはや力を持たない。今こそかつての伝統を守りぬき、自らのブログを立派に誇れるブログとして生まれ変わらなくてはならない。この東洋に浮かぶ美しいブログは、アジアの盟主としての“責任”を果たすべく、これからの国際社会建設に貢献せねばならないのである。

旧版『ブログ史』より
私のブログはこれまで多くの過ちを繰り返してきました。いまこそ歴史を直視し、このブログが行ってきた数々の過失にたいして、償いをし続けなければならないのです。社会の豊かさとは純粋に物質的豊かさだけではかれるものではありません。誰もが認め合える社会こそ、真に豊かな社会といえるのはないでしょうか。



No.237 / 歴史的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.05.11  新しい大ブログ史 <<00:31


 〜はじめに〜(新版より追加)

 歴史とはただ与えられるものではありません。自ら評価し、創りだすものなのです。また、史料とはただ漠然と存在するだけのものではなく、私たちが自ら選び取るものなのです。こういった点を踏まえ、私たちは事実を知り、よりよい未来を築いていかなくてはなりません。

旧版『ブログ史』 序文
 私たちのブログ社会は、いまだ数多くの問題を抱えています。とりわけ、我がブログは多くの歴史的な反省点を現代に伝えているのです。悲劇を二度と繰り返さないよう私たちは歴史を直視し、そこから教訓を汲み取り、ともに共存可能なより良い社会を築くため未来へと進まなくてはならないのです。



第1章 前史

 パトリキはリベラルな中道左派として定評があった。彼がブログ開設を思い立った理由については諸説あるが、もっとも有力視されている説は、自らの思想を広く世に知らしめ、世界平和とよりよい市民社会建設の一助となることを望んだ、というものである。この説は広く人口に膾炙しているのみならず、史料的裏づけも信憑性にたるもので、かつこの説に対する主な反証も見られないことから、もはや定説となっている。
 彼の前ブログ的活動については主な史料が残されておらず、よくわかっていない。一部では、彼がホームページを持っており、まったく更新もしないで数年間にわたり「工事中」を宣言し続けた、などとともっぱら事実かのごとく語られているが、多くの学者たちの見解では認められていない。
 すなわち、パトリキは非常に社会的、文化的に有意義な活動を目指し、このブログを開設したことがわかっている。

第2章 黎明期

 ブログ開設から一年ほどの期間が黎明期にあたるとされている。彼は非常に熱心にブログを更新し、めきめきと文章力を向上させていった。やがて多くの支持をえて、秀逸なブロガーとして定評を得るに至る。とくに社会批判に関する記事はきわめて秀逸であり、彼の記事が周辺諸ブログに与えた影響は多大なるものであった。
 いっぽうで、もっぱら中心的な役割を果たした彼のブログもまた、周辺諸ブログの多様な記事に触れることで自らの記事をより充実したものにしていった。彼のブログは絶えず中心にありながらも、周辺との交流を欠かさず、彼のブログと周辺諸ブログは多様かつ広大なブログ圏を築くにいたったのである。これを「夕焼けが霞んで見えないブログ圏」と呼ぶ。

旧版『ブログ史』より
近年、我がブログが諸ブログに与えた影響について肯定的な意見が唱えられている。我がブログは絶えず周辺ブログとして、より中心にあるブログから多くの影響を受けてきたが、同時にその受容の過程において新しい解釈を施したうえ、それが逆に中心に伝播していったという例も認められるため、より慎重な議論がなされている。



第3章 内的発展期

 彼の思想が内的に発展を遂げつつあった期間を、一般的に内的発展期と呼んでいる。彼は中心的位置を占めつつも、自らの内的諸問題を解決するに至らなかった。彼のブログ文化は発展しきったとき、同時に彼の内的諸問題もまた顕在化したのである。
 その諸問題とは、ひとつには彼の鬱であった。そのため、ブログには絶えず「もう死にたい」などという弱気な記事を投稿したのである。しかしこれは、彼に影響を受けた多くの諸ブログ、諸ネットサーファーたちが、自らのよりどころとしているブログ圏の、その不動たる絶対性を大きく揺るがすこととなった。
 この問題を乗り越えるため、彼は内的発展を余儀なくされた。こうして、後に一大変革を導くこととなる精神的基盤の醸成が促された。この時期はこれまで不当に低い評価を与えられていたが、近年、これを初期的な革命意識の形成期として、そして大躍進にむけた前段階的な内的発展期として、高く評価されるに至っている。

第3章 外的発展期

 これまで第2章の内的発展期を停滞期として捉えるむきがあったが、近年においては第3章の外的発展期とあわせ、二つの発展段階として捉えなおされている。外的発展期の特徴として主にあげられるのは次の二点であろう。
 第一に、めちゃおもしろい記事の台頭である。すなわち、彼のブログが“めちゃおもしろく”なったのである。一時は勢いを失いかけたかに見えたブログ圏も、かつての大ブログらしさを取り戻した彼のブログのもと、その繁栄を取り戻し、それどころか一時的なブログ圏全体の停滞をばねとして、かつてない大繁栄期を築き上げるに至った。
 第ニに、彼の精神性の大躍進があげられよう。この大躍進なくして、いかに前にあげたようなブログ圏の復活が成し遂げられようか。これまでのびやかで大胆な気風を持っていた彼の記事は、それに加えて大海のごとき深さ、蒼空をさらに蒼く塗るかのごとき鮮やかさを備え、ここに文化的大成を見たのである。
 いまや、彼のブログは諸ブログ全体を包括しうるほどになった。だが、その巨大な機構ゆえ、いまだ直面したことのない大いなる危機が訪れようとしていた。それは予期されながら、決して避けることのできない必然的な衰微であり、歴史の終焉の、その始まりであった。

旧版『ブログ史』より
 確かに一時的に停滞期から脱したものの、それは見かけ上の進展であった。実際は、停滞期から持ち越された諸問題を抱えたままであった。これに対して僅かな修正を行うのみであり、根本的な解決策を見出せなかったことが、きたるべきブログ的危機から、そのまま悲劇的な歴史へといたる根本原因となったのである。



 第4章 ブログ圏の危機
  付録 旧版『ブログ史』 第4章相当 ブログの危機 
 第5章 ブログ圏の没落
  付録 旧版『ブログ史』 第5章相当 悲劇のブログへ
 終章 さらなる改革と発展
  付録 旧版『ブログ史』 終章 再生への取り組み〜より豊かなブログを目指して〜


つづく

No.236 / 歴史的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.05.10  辺境サウンド。 <<10:16



Nice Boat.
この動画は間違いなく伸びる。
むしろフィドラーの多さにビックリ。これはいい・・・・・。
シェトランドより、Fiddler's Bid。
さすがシェトランドだけあって、かなり北欧な旋律(な気がする)。


――つるつるの頭、ふさふさの頭、みんなちがってみんないい。――
スコットランドより、LAU。かっこいいなあ。


ドラムスがドコドコ鳴ってると、原始的な感じがする。
アイリッシュアメリカ、SOLAS。


No.234 / 文化的なこと / Comment*2 // PageTop▲

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