夕焼けが霞んで見えない
また家賃払うの忘れてたよ!


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『パトリキ』
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2008.06.26  たのしいデイトレード <<09:08


株とか為替とかやってみたいので、いろいろ勉強してるのですが、どうも難しいですね。

「投資において最も危険なことは、欲望に流されることである。絶えず冷静に判断しなければならない。」

そうは言っても難しい。お金が欲しくて投資してるのに、欲望を無くせだなんて・・・・・・。

「これは買いだ!間違いない、この相場は伸びる。俺の読みこそクールな判断。」

「おかしいよ・・・、なんで下がるんだよ・・・、どうして上がらないんだよお!」

「あ、上げってくれーーッ!俺のために上がれえええぇぇぇぇ!!」

「ちくしょうーッ!明日は勝つぞ、俺は勝ち組だーッ!功名じゃあーッ!!」

これが人情というものでしょう。欲望が消えているというと、

「これは買いですね。」

「下がりましたね、楽しいです。」

「上がりそうにないですね、楽しいです。」

「株、楽しいです^^」

こういうのでしょうか。


わたしはこのように聞いた。あるとき、尊師さまは取引をしていた。そしておっしゃった。

「アーナンダよ、株は楽しい、為替は楽しい、デイトレードは楽しい、長期投資は楽しい、この世は楽しい。」

「尊師さま、今日は110万円の利益が出たようです。尊師さまの読みに間違いはありません。明日はこの倍、あさってはその三倍、こうして(力士が腕を曲げて再び伸ばすほどの)間に素晴らしい利益を上げることができるでしょう。」

「アーナンダよ、相場は無常である。どうして下がるように定められている相場が、上がったりするだろうか。どうして上がることが定められている相場が、下がったりするだろうか。私の読みは決して外れることがない。それもこれも、すべてこの世の法を熟知し、すべてこの世が(まさにそのように)あるように、取引をしているからなのだ。」

「尊師さま、相場が下落しはじめました。このままでは損益が出てしまいます。」

「アーナンダよ、相場は無常である。どうして下がるように定められている相場が、上がったりするだろうか。どうして上がることが定められている相場が、下がったりするだろうか。」

「尊師さま、相場は無常であり、下がるように定められている相場が上がることもなければ、上がるように定められている相場が下がることもありません。しかし、いま相場は下がろうとしています。」

「アーナンダよ、よく聞きなさい。相場は無常である。どうして下がるように定められている相場が、上がったりするだろうか。どうして上がることが定められている相場が、下がったりするだろうか。」

「尊師さま、損切りをしましょう。いま、私は損益を最小限とするため、売り注文を出します。」

「アーナンダよ、私は三度このことを言った。相場は無常である。しかし、おまえは損切りをしようとした。アーナンダよ、これはおまえの過失である。わたしは損切りをすることに決めた。どうして完璧な悟りの境地に至った者が、自ら決めたことを覆したりしようか。わたしは損切りをする。アーナンダよ、この損益はおまえの過失である。」

「ちょ、いい加減にしてくださいよ!」

No.267 / 社会的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.06.25  この記事はデタラメでないです。100%真実にされます。これは安心ブログです。 <<20:10


 ――安心の記事――

とにかく日本人に必要なのは信仰ですね。それも全てを包括しうるような、世界的なものです。グローバルでありながら多元的という、既に先が見えてる世界ですからね。あらゆる信念がぶつかり合い、血を流し合う多元的闘争の時代が来るでしょう。だから、たとえどんな世界観であっても統合し、闘争を許さぬような、平和的でありながら闘争的な思想が必要なんです。そして、それを受け入れる器が必要です。

 ――正しくされた見解――

いまのところ、一番うまくやってるのはアブラハムの宗教でしょう。しかし、ユダヤ、キリスト、イスラームは最終的に戦わねばならないのです。それが現に中東で起こっていることです。もっとも、経済的で現実的な要素が大きいですが。もし神概念を無くさず、かつ無神論と共存可能な信仰を生み出せたなら?その点でうまくいっているのは、お金とか石油だけですね。実のところ、そんな信仰が成功した場合、お金は無くなるし、神概念もなくなるし、それゆえ無神論も消滅するだろうし、最後には人間そのものが消えてしまうかもしれない。

 ――優れた考える――

仏教は、のけ者になる事で敢えて生きるための宗教ですね。種としては、全員が修行者になるのは無理です。おそらくその点でも、仏教は女性の出家者を歓迎できない。男性だけがのけ者となって逃げ切る戦略にも見えますが、その代償として、全体の苦を減らすための努力をしようというのが大乗思想なのかもしれない。修行者だけが苦から解脱して、残りの世界を残してしまった場合、いったい誰がこの信仰を維持するのか、そもそも信仰を必要としているのは人間なのだから。よって、仏教を普遍化した場合、人間という種は滅びる。いわば弱くしてしまう。いっぽうで、一神教は最終戦争を予見させる。

 ――よい考え!――

さて、ここでいいかげんな多神教がのさばってくるわけですが、なんと言っても多元的かつ無限抱擁可能という利点を備えた神道であります。これほど不気味なのはない。何がしたいのか分からないゆえに、何でもできてしまう。その代表が国家神道であり、天皇制であって、とにかく扇動と洗脳には持ってこいです。日本人にしか効かないという説もあるが・・・・・・。とはいえ、サブカルチャーの進展には期待しています。いったいどの程度メチャクチャに暴れてくれるのか。うまい具合に現世利益に結びついて、資本主義との相性もバツグン。「プロレタリアンが団結するなら、骨抜きにしてしまえばいいじゃない!」

頭のいい人、サブカル使って世界征服はじめませんか。まぁ無理でしょう。

 ――うまく厳選される記事――

No.265 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

2008.06.17  飛行船もいいよね! <<03:33


飛行船が飛んでるのを目撃しました。
06160001.jpg

飛行船もいいな・・・・・・。なんだかロマンがあります。そしてふよふよ飛んでいる様は、なんというかキュート。思わず守ってあげたくなる的な無防備さがたまりません。

しかしこんな平和な乗り物が、皮肉にも戦争の兵器となった歴史があるのです。(ドキュメンタリー風に)

第一次大戦では敵陣地に爆弾を、さらには無防備な市民の上にも爆弾の雨を降り注ぎました。
・・・しかしゆっくりやってきて、手で爆弾を投げつけて、ゆっくり帰っていく巨大な浮遊物体は、もはや大量殺戮兵器というより、嫌がらせ程度の存在でしかなかったのです。かわいいよ飛行船・・・・・・。

この飛行船にかわり、スマートでスピーディでハイテクな存在である飛行機が使われるようになります。それでも当時の爆撃は手投げ爆弾、そして空中戦はレンガのぶつけあいです。それでもナウくてイカす存在だった飛行機!ナイツ・オブ・ザ・スカイ(天空の騎士)などと格好つけます。まさか数十年後には「気付かないところから、気付かないうちにブッ殺される」ような空中戦とか、そのまた数十年後には「何かよく分からないうちに、ヘンなミサイルが飛んできてブッ殺されていた」ような現代空戦の世になるとは、彼らは思ってもみなかったでしょう。こんな時代のパイロット英雄伝を聞いて育った青年が、第二次大戦で意気揚々と空へ舞い上がっていったら、

「後ろを見てなかったら蜂の巣になった」
「とろい爆撃機に近づいたら蜂の巣にされた」
「出会いがしらに蜂の巣になっていた」
「敵が逃げたと思ったら、後ろにいた」

こんな空の事情が待ち受けていたのです。悲しいものですね。

話を飛行船に戻します。
飛行船というより気球ですが、やはり戦争で主に守りの技術として応用されます。
それが阻塞気球というやつで、気球からワイヤーロープをぶらさげ、敵の飛行機を引っ掛ける「嫌がらせトラップ」です。ロンドンのまわりに、この阻塞気球が無数に張り巡らされました。もう、やれることは何でもやろうという精神です。これに対して、「ワイヤーロープをぶった斬る装備」も開発されました。もはや何でもありであります。


これはノルマンディー上陸作戦の写真ですが、たくさんの阻塞気球があげられています。壮観なものです。とても低空飛行で突っ込む気になれません。

まぁそんなわけで飛行船はかわいい。
かわいい。

No.253 / 科学的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.06.16  思索ノート<問答編> <<05:28


「ねぇ、もし本当に精神を持っているなら、いますぐ死んでみせてよ。だって、精神は死なないはずじゃない。」

「私の精神は決して身体を軽蔑しない。私の精神は、精神自らを試してみることをしない。なぜなら精神は明晰さを持っているのであるから、私の身体が現にあることを明晰に知り、私の精神が現にあることを明晰に知っているはずだからだ。なのに、なぜ身体と精神を試してみることをするだろう?」

「あなたの精神は、身体や現象を疑うところから生じたのではないの?」

「私の精神はいたずらに疑うことはしない。精神の生成する以前より、ただ存在していた物を、どうして疑うことができるだろう?」

「精神は死なないはずなのに、生成するの?だって、不死のものが生成するなら、無限なものが有限であることになるよ?」

「身体よりも簡単に精神は死ぬ。認識の死ぬところで精神は必ず死ぬ。むしろ身体だけが生きている場合が多い。」

「身体や認識について、疑いが生じるでしょう?現に生じたのでしょう?」

「認識し、観察すること自体に疑いはない。私が誤認している可能性はあっても、観察し、認識したことに変わりはない。誤認したと断定するならば、現在の認識のほうがより正しいという確かさが無くてはならないが、その確かさは認識そのものの実在性に由来するはずだ。だから、明晰さを持つ以上は認識し、観察することの確かさもまた認めなくてはならない。」

「あなたの明晰さとやらは、どこからやって来るの?」

「以上のとおり、身体の確かさ、認識の確かさだ。精神の明晰さは身体の確かさ、認識の確かさを抜きに説明できない。」

「説明になってないよ。明晰であることは、疑いの持ちようがないことでしょう?あなたは身体の確かさ、認識の確かさを無前提に認めて、そのくせに明晰さを言っているじゃない?つまり、疑っていないだけ。」

「まさに、私の明晰さは疑いを持たない。例えば、ある人が見た像が、他の人には別の像として見えた場合は、現象の認識自体は双方ともに明晰だが、その影自体は自らの同一性を反映しうるものではなかったのだ。すなわち、像とは同一性を持ち得ない。主体もまた然り。」

「あなたは精神に明晰さを持たせているのに、主体には同一性を否定するんだね。」

「精神にも同一性はない。ただ現象の像に確かさがあるだけだ。」

「ようするに精神って無いの?」

「認識するならば、精神は存在する。というより、認識自体を是認することそのものが精神の形だ。」

「あなたは認識を絶対化するだけで、精神についてはあやふやだね。」

「認識することができなければ、精神についても知りえないだろう。」

「ただ認識に全て還元してるだけじゃない。」

「それが今のところ最も確からしいものだ。それは今まで変わっていない。神の存在も導出できるかもしれないが、私は認識したことが無いからわからない。ただ、思慮することはできるかもしれない。」

「あなたに神はいないんだね。」

「神の存在より、風の音のほうが確からしい。君は主を試すようなことはできるのか?」

「できないだろうね。」

「それと同じく、私は認識を試し、その源である身体を試すことはできない。」

「じゃあじゃあ、もし五感を全て絶たれたら?」

「沈黙せざるを得ない・・・・・・。」



やっと出発点らしい物は見えてきた。私はこれを信じます。
デカルト風の精神とか明晰さとか言っておきながら、どんどん身体と現象に還元していく嫌らしさ。あちこち矛盾が見えそうで恐ろしいですが。
しかし、現象こそ確からしいのです。これを認めなければ、正しく無いという認識も不可能なのです。

<疑いようはないのだ、認識したということについては。その確かさから全ては生成する。>
<我認識する、そして我なし。>

なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。今まで納得いかなかったことが、自然と納得できる。人生についての課題に次々に応用できる!これほど素晴らしい感動はない!やった!やった!

あぁ、でも次々と拙劣な問題点が・・・・・・。

No.252 / 思索的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.06.09  思錯ノート3 <<21:23


なんじゃこの中二病は!このノートを書いたのは誰だッ!
数日で黒歴史化するとは、まさに理想のカタチである。

黒歴史と現実の弁証法的過程においてこそ、主体は自己発展するのである。

重要なのは劣悪なことではない。<劣悪さ>から脱却することでもない。<善さ>でもない。
すなわち概念による外化から脱却することである。

そしたら取り結んだ労働諸関係による外化にやられちまったとさ。
(簡単な話で、働かざるもの食うべからず、仕事のために生きて死になさいという一般常識)

大般涅槃経を読んだら今まで考えてたことを全部ひっくり返されてしまった。「どれだけ考えてもキミはキミではありえないし、キミは死ぬまでキミなんだよ(笑) だからYou帰依しちゃいなYo☆」
ええい、ちょっと寺院いってくる。

仏法があまねく三千世界を照らしますように。
というわけで振り出しへ戻る。

No.248 / 思索的なこと / Comment*2 // PageTop▲

2008.06.01  思錯ノート2 (すこぶる感傷的な!) <<17:10


「欲望」

欲望といえば睡眠欲、食欲、性欲が三つの欲と言われている。しかしこの三つは極めて原初的であって、これより上位に知的欲求があり、人間をよりマシな方向へ向けてくれるという。忍耐は多くの欲望を抑え込み、ただ理性によってのみ人は生きるのである。この禁欲的、ストイックな人間観が一般的には「善い」とされる。だが、禁欲や忍耐や義務が欲望を伴わなかったことがあっただろうか?

欲望がネガティブに捉えられるのは、人間が滅びを欲するからである。すなわち、欲は没落への動きである。没落していく者は、一種の快楽を得るだろうし、絶えず没落への動きが続けば、さらなる没落を欲するようになる。(自己を保存しつつ)効率よく快楽を得るには、忍耐が必要になるのだ。こうして欲望を抑えつつ、刹那的に崩壊させ、発散する技術は良く知られている。積み上げた積み木の城を、子供は最後に壊すのである。

元から滅びへと向かおうとしている人間が、なぜ進歩的精神に目覚めたのか?禁欲と程よい快楽の資本主義が、ほんとうの目覚めだったのか?それとも人間は滅びと眠りを欲するか?

戦争はカーニバルだったのか。多くの若者が滅びを欲したのか。原子爆弾は「禁欲的」であったのか?それとも積み木の城を壊したい子供だったのか?

ヘブライ人はどうして滅びを見るのだ?日本人はどうして進んで死のうとしたのだ?
疑問ばかりであるが、環太平洋は最高のカーニバルだったに違いない。そして再び積み木を組む。

No.245 / 思索的なこと / Comment*0 // PageTop▲

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